希望を見失ったにもかかわらず100点満点なんですよ、きっと。

ちょっと色々と悩んでしまう出来事もあり、「希望」を見失いそうな時期が続いていました。
にもかかわらず関わらず100点満点って言い切れそう(笑)
忘れないうちに書いておきます。

はい。
私、減点評価、ジャッジの世界から降りました。
ジャッジや評価って、人が人へするものではなくて、触れられない次元にあるんじゃないのかなぁ?と考える出来事もありまして。(神様を信じようとか、そういうニュアンスではない)
「いま、ここに、いる」、それだけで100点満点。
「やった」or「やらない」、「できた」or「できない」で人を判断してはいけないのかなぁ…と。

あ。
もちろん、こと(問題)を、いかに素晴らしくするにはどうするか?を語っていくのは必要である。

価値観が広がったこともあるんだけど…。
何気無い出来事の中に自分の希望、幸せもあって。
希望を見失いかけていたからこそ、見えたこともあって。

・慕える先輩が側にいた。側にいたのは知っていたけど頼れること、甘えてもいいことに気づけた。
・慕ってくれる後輩もいた。側にいたことは知っていたけど、先輩だから頼られるばかりではなくて頼ってもいいと気づけた。
・同じ業界で働き、認め合い、競い合える仲間もいた。
・友達もいた。
・直接的な関わりは少なかったけど見守ってくれている人もいた。

僕が、何をしたって、見放されるわけではなく、100点満点なんだなぁ…と思えて。
あ、犯罪とか他者へ迷惑をかけてしまうことはいけないかと思います。

わーきゃー、わめいて、離れていかず、壊れず、残っていた何かが残したい何か…なのかもしれません。

だからこそ、僕も誰かへ、何をしたって、100点満点だと思えたらいいなぁ。

『きっと、そのままで100点満点』。

変わること。

変わることって大切だと思う。

…少し感じるのは、変わることって、見方によれば、そのままを認めないことでもあり、価値観で判断したり、良い悪いって物差しでジャッジしていることでもあるのかなぁ?
そんなことも感じました。

そういえば「変わる」より「加える」って言葉が好きと言っていた人がいたことを思い出した。
結果は同じなんだろうけど、「加える」だと、いま、ここにいる自分がベースである印象も感じて、僕も好きだなぁ。
(言葉のニュアンスって難しい)

変わるってすごい。
変えることを否定するつもりもない。

そういう選択をする上で、「変わりたいけど変わるのは怖い」って気持ちがあることも意識しなければならなくて。
自分は勉強しようと思っていたのに、お母さんや先生から勉強してる?って言われたら、めっちゃ腹立つし、反発して逆に勉強がしたくなくなる感覚が、人間の心理として働く…との聞いたこともあります。

「選択肢を増やそう。
価値観を広げよう。
…その中で、どれを選んだら君にとって幸せなんだろうか?」
…って自分は投げ掛けられたいかなぁ、そして誰かへ投げ掛けたいかなぁ。

『そのままで100点満点。
(そんなダメダメな君でも、僕は側にいるし仲良くしていきたい。)』と考えたい。

もちろん、そのままではベストじゃなくて、ベストを目指していける可能性もあり、その可能性は信じていかなければならない。
「まだ今日は就労は決まってないけど、それもOK。働ける可能性はあるから知恵を出し合おうぜ」とは伝えていく必要はある。

…であれば、
『明日の100点満点って、どんな姿だろうか?何を出来た時だろうか?どんな風に思えた瞬間だろうか?
どうすれば、達成できるだろうね?』と投げ掛けたいよねぇ。

今日の自分、
今日までの自分、
その歩みを否定されることについて、どう思いますか?
僕は、やっぱり否定されたくありません。

チャンスって平等ではない。だから、どこかで泣いている人がいるんだろう。

「すごくなりたくても、すごくなれない(すごくなるのに時間が必要)」
「やりたくても、やれない(やるのに時間が必要)」
「ほめられたくても、ほめられない」

「モテたくても、モテない」とかもあるでしょうか。
モテたい人に関しては努力すれ!と…。

「すごくなりたくても、すごくなれない」、「やれないけど、やれない」、「ほめられたくても、ほめられない」、そんな哀しみは、どこへ行くのか?

ほんとに本人の諦めだけが原因なのか?

諦めるきっかけがあって。
諦めた本人がおり、それは本人の選択でもある。
諦めたくなくても、諦めなければならなかった人もいるかと思う。

諦めなくて良かった人は、力もあったと思う。
いろんな意味で恵まれていた人ってだけの違いとも考える。

諦めてしまった人の生まれた環境、タイミング、能力、特徴に罪はない…と僕は考える。
そんな不利な条件のなか、努力して、壁を乗り越えていく人はカッコいいし、そこは称賛すべき…だとも思う。

「努力しようぜ!」
「諦めないで頑張ろうぜ!」

僕は、努力したり、頑張っても、報われなかった経験があって、そういう状態になったんだと考えます。
(もちろん本人の手段の選択が適切では無かったことも検討しなければならないけど…)
…そういう雰囲気は、時に、誰かを追い詰めることにもあるんだと感じる。

みんな、努力をかせられるのか?
みんな、壁を乗り越えていかなければならないのか?

ちょっと待てよ…と。

誰もが諦めずに挑戦できる社会ですか?
誰もが望めば機会が与えられる社会ですか?

だったら、どうしてストレスが溢れて、自殺も多いんだろうか?

誰もが諦めずに挑戦できる社会ってどうやったら作れる?
誰にも望めば機会が与えられる社会ってどうやったら作れる?

泣いている人へも手を差し伸べたり。
泣いている人の側に寄り添っていったり。
…そういう動きってあるのでしょうか。

本人の気持ち、人々の気持ち以外にも、社会、環境へのソーシャルアクションが求められるよなぁ。

上には上がいるけど、下には下がいた。

上には上がいるって言うじゃないですか。
下には下がいました。

「下には下がいる」って言葉でワクワクした人、病んでいるか、性格に歪みがあるよ、きっと!

ちょっと私自身、病んでいまして。
ちょっと仲間と話してきたんですよねー。

表に出していないだけで抱えている。きっと。

話す前まで「無気力だー」、「絶望だー」とあたふたしてたわけです。
話した後、「無気力って言いながら、気力があった」し、「望みを絶たれてなかった」って気づきました。

…だって、お風呂も入れていたし、髭もそれていた(僕は鼻と口の間のエロいことを考えたら伸びる部分の髭のみだけど)し。
あと、なんだかんだ3~5時間以上、眠れていたし。
気力も有ったし数え切れないくらい色んなことを頑張っていた。

ほんと、まだまだだった。

まだ生きていた。
足もあるし。頭に輪っかもついていないし。頬っぺたをつねっても痛かった。

ほんと、まだまだですよ。

「安心」と「不安」。

朝の4:30頃に文章を作成しております。

皆さんは、安心していますか?それとも不安ですか?

えぇ。私は、最近、「不安」です。
「不安」です。

私、不安自体は悪いこととか思っておりません(笑)
不安を解消することって、「いま」、「目の前の壁」、「傷」、…とにかく「負の経験」、「ネガティブな感情」も否定してしまっている気もしてしまいます。
それすら認めてあげたい…と考える面もあります。
(もちろん、落ち込んでしまっている状態はツラいけど…)
そこから見上げる景色、沈んでいるから感じられること、悲しかったり苦しかったり苛々する気持ち、その中にも意味や価値が存在している…と思うんだぁ。

何で笑顔じゃないといけないのか?
何でポジティブじゃないといけないのか?
何で前向きじゃないといけないのか?
何で明るくないといけないのか?

…プラスじゃない状態、プラスじゃない他者を否定してしまう面もあって、私は選びたくないのです。

しょんぼりしていてもいいじゃない。
ネガティブでもいいじゃない。
後ろ向きでもいいじゃない。
暗くてもいいじゃない。

この投稿の冒頭に「不安です」と書きました。
不安だったってよりも、安心できなかった…って表現のほうが適切かなぁ。
不安でいられらないことで安心できなかった…と表現すれば良いのか。

実は、不安でいても構わないってことも安心に繋がる要素を一つなんじゃないのかなぁ?

不安が解消されたことで本当に安心できるのか?
不安と向き合えない弱さが、そこにあるんじゃないのか?

不安とも、いつかは「さよなら」しなければならない。きっと。
不安を追い出さなくてもいい…って感じる。
不安を消し去らなくてもいい…って感じる。
不安と共に過ごせるその瞬間だけでも向き合ってあげてもいいんじゃないのか?

自分を責めたり否定する気持ちって、自分の中に存在している不安を消し去ろうとしていたり、追い出そうとしていた…のかもしれない。
不安を感じる自分も紛れもなくボクであって。
可哀想なことをしていた…のかもしれない。

不安さんを大事にしてやることで安心もできるんじゃないのだろうか。

不安さん、ごめんなさい。

自分なりに居場所について考えてみた。

大学生時代にボランティア、ミュージシャンとして関わらせていただいていた仲間に会ってきた。
「おかえり」、「また、いつでもおいで」と言われて心が温かい気持ちになりました。

あぁ!これじゃねぇ?僕の求めていた居場所な感覚!!!

何となく脳内に浮かんできた言葉が…うーん
アジトが欲しい。
隠れ家が欲しい。
休憩できる場が欲しい。
アットホームな場が欲しい。
ボソっと近況報告できる場が欲しい。
ホッとしたい。
逃げ場が欲しい。

こじんまりした居酒屋とか常連になって、仲間と集まりたい(笑)

多少、落ち込んでいて、心も身体も休めたい時は、上記のような場を求めたいかなぁ?
そして、そういう場が少ない…って感じる。

刺激が欲しい!
クリエイティブなことをしたい!
(クリエイティブとは→http://oshiete.goo.ne.jp/qa/193946.html)
ワクワクしたい!
影響を受けたい!
ひらめきたい!
意識高い系な感覚を味わいたい!

…って集まりは、いっぱい存在する気がする。
ワクワクするってことは昂るってことだろうし、ホッとするとは対照的な面があると、私は考えていて。

なので、こういう集まりって、成長や変化を求めていたりする時は、めっちゃ行きたいけど、疲れ気味の時は場違いな感覚を抱いてしまう。
私の被害妄想だけど、時は孤立感も抱いてしまいます…。

決して否定したいわけじゃないのですよ(笑)
ほんと、ここは誤解しないでいただきたいです。

前者が、「そのままの自分、スイッチOFFでいられる場」。
後者が、「自分を変えていく、スイッチONになる場」。

何を伝えたかったかというと…
どっちも必要なんだけど、スイッチONの場が多くスイッチOFFにできる場が少ないので、スイッチOFFの場も欲しいのですよねぇ。
もっと使い分けたい。

…下降したり。
…あえて公言して逃げ場へ行ったり。
…だらだらしたり休んだり。

そういう場が欲しい。

皆さんはどうでしょうか?問い掛けてみたいです!!

P.S.…あ…あと「おかえり」って言ってくれる恋人が欲しいwwwww

「変な人」って?

「誰かを傷つけてしまう出来事は嫌いだ。」と言いながらも私自身が傷つけてしまうような発言をしてしまっていることもある。

人間なんて矛盾だらけなんだ。



なんかね、
友達と話していて「変な人」って言葉が出てきて、
頭の中にモヤモヤした気持ちが溢れております。

それぞれの価値観ってことで片付けてしまえば、それまでで。
どうにもならないことなのかもしれないけど…。

どこが引っ掛かっていたんだべ?

「変な人」の中に自分の友達も該当しそうで、あまり良い気持ちにはならなかったかなぁ…。
自分の友達も大切にしてほしいよね。大切にする必要はないけど否定的な目で見てほしくなかったよね。

たしかに、「変な人」って一面もあるかもしれません。
いや誰だって、きっと「変な人」な一面も持っていて。
もっと、きちんと関わって良い部分やステキな部分も見つけてほしいなぁ…って思う。

…と偉そうに書いていたら、私自身、きちんと関わっていなかったり、ステキな部分を見つけようとしていなかったりしてた。
反省して改善しないと。

誰だって「変な人」と見てしまう感性をもっているのかもしれない。
誰だって「変な人」と「いい人」で区別してしまう感性をもっているのかもしれない。

違うんだよね、きちんと関わらずに、ああだこうだ…と語るのは少し違う気がして。
あと思うのは自由だと考えているんだけど、それをネタにする感じは良くなかったなぁ。
自分も変なことをしていたら、ネタにされちゃいそうな恐怖も抱きました。
『すごく切なかったし哀しくなった。』

このモヤモヤをこういうカタチで表現している自分も卑怯じゃん(笑)

少数派の存在も受け止められるココロでありたい。別に受け入れる必要はないと考えている。自身で距離感を考えればいいだけだし。
多様性をもちたい。「あ、そういう人もいるよね」で止めておくのも有りだよね。

自身の中に潜んでいるダークな面も自覚して適切に扱いたいよね。

うーん。
誰しも、どこかで自分の理想を周りに押し付けたりして、その理想から外れる何かを排除しながら生きているんじゃないのかなぁ?
僕自身も、この投稿で自分の理想とのギャップについて語っているだけにすぎない…つまりは排除しようとしているんでしょうし。



「誰かを傷つけてしまう出来事は嫌いだ。」と言いながらも私自身が傷つけてしまうような発言をしてしまっていることもある。

人間なんて矛盾だらけなんだ。