チャンスって平等ではない。だから、どこかで泣いている人がいるんだろう。

「すごくなりたくても、すごくなれない(すごくなるのに時間が必要)」
「やりたくても、やれない(やるのに時間が必要)」
「ほめられたくても、ほめられない」

「モテたくても、モテない」とかもあるでしょうか。
モテたい人に関しては努力すれ!と…。

「すごくなりたくても、すごくなれない」、「やれないけど、やれない」、「ほめられたくても、ほめられない」、そんな哀しみは、どこへ行くのか?

ほんとに本人の諦めだけが原因なのか?

諦めるきっかけがあって。
諦めた本人がおり、それは本人の選択でもある。
諦めたくなくても、諦めなければならなかった人もいるかと思う。

諦めなくて良かった人は、力もあったと思う。
いろんな意味で恵まれていた人ってだけの違いとも考える。

諦めてしまった人の生まれた環境、タイミング、能力、特徴に罪はない…と僕は考える。
そんな不利な条件のなか、努力して、壁を乗り越えていく人はカッコいいし、そこは称賛すべき…だとも思う。

「努力しようぜ!」
「諦めないで頑張ろうぜ!」

僕は、努力したり、頑張っても、報われなかった経験があって、そういう状態になったんだと考えます。
(もちろん本人の手段の選択が適切では無かったことも検討しなければならないけど…)
…そういう雰囲気は、時に、誰かを追い詰めることにもあるんだと感じる。

みんな、努力をかせられるのか?
みんな、壁を乗り越えていかなければならないのか?

ちょっと待てよ…と。

誰もが諦めずに挑戦できる社会ですか?
誰もが望めば機会が与えられる社会ですか?

だったら、どうしてストレスが溢れて、自殺も多いんだろうか?

誰もが諦めずに挑戦できる社会ってどうやったら作れる?
誰にも望めば機会が与えられる社会ってどうやったら作れる?

泣いている人へも手を差し伸べたり。
泣いている人の側に寄り添っていったり。
…そういう動きってあるのでしょうか。

本人の気持ち、人々の気持ち以外にも、社会、環境へのソーシャルアクションが求められるよなぁ。