そして、また×をつけていく。

「行動しよう!」、「ポジティブな感情をもとう!」、「ネガティブな感情はもたないようにしよう!」って、雰囲気が作られたら、『あ。動けなかった…』、『ネガティブな感情をもってしまった…』、『ポジティブな感情をもてなかった…』と自分自身ににを付けてしまうよねぇ。

世間の雰囲気に自分の考えを壊されてしまい、自分に×をつけて、どんどん自分を壊していっているなぁ。

誰かへ嫌だと伝えることって出来ていますか?

誰かへ「その行動は嫌だ」…と伝えることも大切だなぁ。
なんというか「相手の行動が酷かったから、僕は苦しかった、哀しかった」と“相手の行動のせい”にすることも、時には必要かと思う。
(もちろんベストは、その出来事の課題を見つけ、改善策も考えること…だと思う)

例えば親とのやり取りで我慢してしまうこともあります。
僕は親を絶対的に信頼しなければならない存在と思い込んでいた…と2日間くらいで気づいた(笑)
我慢が多かった?…とも気づきました。

そんな親からの行動で我慢しなければならなかった時、「酷い行動だとしても、絶対的な存在である親だから、それを受け止められなかったり、良い解釈が出来ない自分が悪い。絶対的な存在に逆らった自分は最低な存在だ。」とか思っていたかも。
親しい親友、恋人なんかでも近い思考をしていた記憶がある。
「親友を悪く思う自分って最低」、「恋人の嫌な部分を受け入れられない自分って最低」と常に自分を責めてしまう状況が作られていた…って気づいた。
割と「自分が悪いから」、「相手は悪くなく何か事情があった」、「(たとえ相手が酷い行動をしていても、)わがままを言ったら嫌われてしまう」って結論にしていた気がする。

「いやぁー、今回、投げた球受け取りにくかったわー。もっと受け取れるように投げてほしい。」
「受け取りにくい球を投げるから他の人とキャッチボールするわ(君とキャッチボールしたくないわ…でも有りかなぁ)。 また、そういう気分になったらキャッチボールしよう。」
…で、いいじゃん。

ほめることは素晴らしいし多くなれば良いんだけど、僕には恐怖があった。その正体。

http://bokudeki.me/essay/realization/55313

私、めっちゃ他者からの評価を気にする人間でして。
その割には、ほめられたい(認められたい)けど、それを素直に受け取れない心理もありまして…。

うーん。なんだ、これ?って…。
色々と考えておりました。
(冒頭に貼り付けたURLも読んでいただければ、理解しやすいと思います。)

私、ほめられた後、評価が下がる可能性もあるって恐怖に脅えていました。
だから、誰かからのほめるを受け取るのが怖かったのかなぁ…と。
たぶん、基準に○か×、又は白か黒しか無くて、○では無くなると…って考えたら恐怖で恐怖で仕方なかったんです。
まぁ、実は、どちらでもないこともあるのですけど。

その恐怖に脅えなくて済む方法の一つが、「これ以上、下がらないところまでいく」ってことでもある。
0点になったら、それ以上、下がらない…みたいなことでしょうか。

…あ…これ、哀しいことになっているし、そんな現状が悔しい。
自分を守っていたり、最善ではないけど自分で自分を助けているんだけど、別の手段もあるはずだよ~。
別の手段、探したい。

気持ちや意見を上手く言葉にできない。

うつ病…うつ状況が悪化して、結構、つらいことになっています。
頭も動いていない感覚があって、気持ちや意見を上手く言葉にできない。
http://sp.skincare-univ.com/article/008135/

相手は変えられない…って言うけれど。

「過去と相手は変えられない、未来は変えられる」って言葉、よく聞きます。

ちょっと考えていたら、「相手は変えられない」って誤った解釈をしている気がして。

相手を自分の思い通りには変えられない…ってことは事実だと思います。
そこは同意です。

だから自分が変える。
その結果、相手を避ける…って自分の行動を変えるとかあると思う。
別に否定はしないけど、結局は受動的で、何だか自分の可能性も相手の可能性も信じていない感じもして、そこに違和感もあります。
相手は変わっていないし自分にとっての不都合があるのならば、望む未来に変えられたんだろうか?

望む未来に変えられたんだろうか?
ここに違和感があるのです。

私は、相手を変えられるとも考えて。
自分と相手との関係を望む形にするって意味で変えていくことは可能だと考えている。
交渉する、折り合いをつけるってことです。
自分の言葉や振る舞いを変えて、結果的に相手の言葉や振る舞いも変えていくってことでしょうか。

別に仲良くする方法を考えようってことじゃなくて、影響が大きいから距離を考え直したいって話し合いをしたって良いのです。
伝える方も、伝えられる方も、苦しいかもしれませんが。
でも可能性を信じていないから動けないだけ…とも思ったり。
相手の理解力の無さが原因だと捉えて、自分の表現力の無さを隠していないのか??って問われていると考えています。

だから、自分の行動を受動的な行動から、能動的な行動へ変えて、見返りを求めず相手へ働きかけるってことは可能かと考えました。
もちろん、こうやって理想を語るのは簡単で、行動にするのは難しいけれども。

実際に行動していくのは難しいし、私は語る筋合いが無いほど苦手で出来ていませんけど、自分も相手も大切にしながら生きていけたら良いですよねぇ。

まぁ、受け身な部分はあるし。
一番、自分が大切で他者なんて、どうでもいいって狂気も心の中には存在しているでしょうし。
ただ自分が誰かを切り捨てながら生きるってことは、いつか自分自身が誰かから切り捨てられることも覚悟の上で選択しなければならないんじゃないか?
その世界観は有っても良いけど、僕は共感できないかなぁ。
そういうことでしょうか。

自分を大切にすることって?

お友達と話していて、私は他者からの評価を気にしているってことがわかりました。
いやはや傾向はわかっていたつもりだけど、他者から指摘されると入ってきますね。
さすが他者評価が気になる人!

あれ?
他者の反応を観察していたり。
他者の意見を聞いている。
そんなストレングスもあるのかもしれません。
…まぁ、全て受け取らず時には流すことも必要ってことなんだと思う。
真面目、向き合おうとするってストレングスもあるかもしれません。

本題に入ります。
他者からの評価が気になる、すなわち自分の評価を二の次にしているってことだと思う。
では「自分を大切にする」って?

『できたことを、ほめる。』
『良い出来事を評価する。』
…そんなイメージが浮かびました。

それだけなんでしょうか?

『しなかったことも大切にする。(できたことをほめる…の逆のこと)』
例えば相手を思って伝えなかったことだってある。

『良くない感情にも正直になる。』
怒る、悲しさ、憎しみを表現するってことも重要なのかなぁ…と。(もちろん適切な手段で)
「怒っちゃダメ」、「いつまでも悲しんでいて意味があるのか?」、「憎しみをもってはいけない」…それも正論ではある。
そういう感情を抱くのも事実でもあって。

怒らずに我慢できたね。
爆発しちゃったけど、これまで我慢してたんだね。
怒りも表現できてスゴいね(もっと適切な表現は有ったか検討する必要は有り)。
…そういう形で大切にしていくのも必要だと感じました。

『自分を権利擁護すること』も大事だと思いました。(ぶっちゃけ書きたかったのは、この権利擁護ってところ。)

自分を出していくって大切にしていくこともある。
自分を壊されないように守るって大切にしていくこともあるんだなぁ…と。

『研究テーマが増えて100点満点』~誰にとっての「問題」なのか。~

色んなやり取りな中で「問題」という言葉が出てきていて。

…私、引っ掛かりました(笑)

結論から述べると、その人を困らせている「問題」ではなくて、メカニズムを考えたり、対処法を考える「研究テーマ」と言い換えれば、問題とされることを抱える本人にとっては否定もされず楽になるのではないのか?
「問題を抱える人」ってレッテルを貼られるよりも、「研究テーマを見つけた研究者」と呼ばれたほうが気分な良くないか?
表現の課題だったり、捉え方での課題ではあり、同じ方向へ進んでいる事柄とも感じるのだけども。

問題って誰にとっての問題?
…社会的な価値観での問題?
…本人にとっての問題?

その問題を解決したい、取り除きたい、無くしたいのは誰?
…本人?
…問題と捉えている誰か?

そこには「問題(良くないこと)って解決しなければならない」…とジャッジしている人がいて。

ケースによるが本人不在で、問題という雰囲気を出してしまっていたなら違和感も覚える。
その問題も本人にとっては、何かを助けるための行動、安心するための行動なのかもしれません。
問題だけ取り除いて助けられますか?
問題だけ取り除いて安心させられますか?

「どういう意味や価値があったのだろうか?」と問い掛けたい。
周囲から見て問題だったことが本人にとっては何か意味のある行動だった場合、ジャッジされて「問題だ、解決しよう!」と言われたら、どうなんだろうか?

問題って必ずしも取り除く必要は無いようにも考える。

『問題だらけだけど100点満点』だし『研究テーマが増えて100点満点』と言えたらステキな世の中に近付くかと思う。